随分昔になるが 初めてインドに行ったとき バンガロールのアシュラムで サティア・サイババにお会いした。とはいっても遠くからその姿を見ただけだ。たくさんの人が手紙をたずさえ サイババに手渡そうとその登場を待っていた。
サイババは2-3か所のアシュラムのどこに現れるのか 直前まで分からない。運良くその日はバンガロールで良かった。音楽とともに姿を現したサイババは 笑顔でつぎつぎと手紙を受け取っていった。取ってもらえない人もある。私に特別の感激はなかったが 小柄な人だなという印象が残った。
それから月日がたった。サイババとの縁が生じたのか サイババの物質化現象によって現れたビブーティをある人からいただいた。またサイババの信者団体である「サティアサイオーガニゼーションジャパン」に足を運んで 書物を数冊購入した。それを読んだのは2005年の秋。
名著として名高い『サティア サイババとの対話』(J.S.ヒスロップ著)はその後も繰り返し読んでいる。今日2年ぶりに読んでいると大変示唆に富んでいるので改めて じっくりと深く読みたいと思った。一節を紹介すると・・・・
ヒスロップの質問:アヴァター(サイババを指す)は決して「生まれる」ことはないのですが、アヴァターは通常のように成長して成人する肉体をとって生まれるように見えます。人間の肉体は永遠なるものではありませんが、ババの肉体もその点では変わらないように思えるのですが。
サイババの回答:アヴァターはあなたが言うような肉体しかとりません。違うのは、人間は様々な傾向や行動の結果などを携えて肉体に入ってくるという点です。ババは何の傾向も持たず、完全に自由な状態で肉体をとり、欲望も、執着もなく、常に幸福です。
牧野元三氏の監訳である。ここでサイババは普通の人間と同じ肉体を持っていることを明かされた。しかし普通の人間のようなカルマ(自分がまいた種は自分が刈り取らねばならない、自業自得)を背負って肉体に入ってはいないということ。完全に自由な状態で 欲望も執着もなく常に幸福であると。
サイババと自分とを比べても話にはならないが 神性を本質として自己を正しくみるならば 学ぶべきことが多い。欲望と執着がなければ幸福でいられるというのは真実ではないか。夢や成功を求めて努力することが善とされるこの世の中。それがエゴの増大に終わるなら大変不幸なことである。得られない苦しみと失う苦しみが必ず生起する。
サイババがいつもおっしゃるのは「サーダナ」(日常生活における霊性修行の実践)である。それは身口意の働き(心・言葉・行為)の統御を意味する。「欲望と執着」について考えてみる必要がある。 ではまた・・・・ 2021.11.19
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